論語と算盤は時代遅れなうえ間違っている
もうしばらくすると、一万円札の人物が渋沢栄一になるらしい
その流れで、私のまわりでも、渋沢栄一や、彼が書いた書物である「論語と算盤」が話題になることが増えている
つい先日も、会社の上司が、いま一番重要なのはこの本だ、と論語と算盤を読むようにすすめてきた
漢文の書き下しが多く、単語の意味が分からないことがままあり、何度か挫けそうになりつつ、すべて読み終わった
感想としては、渋沢栄一の今でいうブログであり、それほど絶賛するようなものではないと思う
個人的にいいなと思ったのは二か所で、一つ目は渋沢が江戸時代に船でナポレオン三世が統治するフランスのパリ万博に行った時の話
まだスエズ運河が開通しておらず、一部陸路を利用して55日かけてパリまでたどり着いた。パリにいる間に江戸時代は終わり、その後スエズ運河は開通し、渋沢の存命中にシベリア鉄道やパナマ運河も完成した
当たり前だが、江戸時代と現代は連続している
二つ目は、江戸時代を回想して、当時は士農工商の区別が厳格で教育程度が階層によって異なり、また鎖国のせいで海外から置いてかれていたというあたり
士農工商と鎖国については、最近否定されることもあるが、当時を生きていた人がそう言っているのだからそれなりの信ぴょう性はあるだろう
結局、個人の見解や作り話よりも事実のほうが面白いのだなと、妙なところが勉強になった
さて本の主旨について、全体を要約すると、まず渋沢栄一は迷信とか奇跡といった超常現象が嫌いで、宗教より哲学、それも東洋哲学である儒教で世の中をまとめたいと思っている
江戸時代に国学とされた朱子学は、儒学の教科書である論語を曲解しており、論語にある孔子の本来の教えに立ち返れば、富を増やすのは間違ったことではなく、商業や工業にもこれを適用できるとしている
渋沢の考え方は、宗教改革で、お金を稼ぐことは悪いことではなく、神の栄光を表すものだとしたカルバンのようだ
またこれからはキリスト教だとした前五千円札の新渡戸稲造や、脱亜入欧を主張した現一万円札の福沢諭吉とは異なる思想だ
渋沢は間違っている
まず、論語と算盤の中で儒教とキリスト教が対比されている箇所があるが、キリスト教は宗教であり、儒教は哲学なのだから、比較対象が間違っている
儒教と比較するべきは、古代ギリシャから連綿と続く西洋哲学や、道教など他の東洋哲学であろう
そして、儒教を日本の国学として採用するかについては、残念ながら現一万円札の諭吉先生のほうが正しい
儒教思想を推奨し論語をテキストとした文明はことごとく停滞した
明、李氏朝鮮、江戸幕府、はそろって、最初は調子がよかったが、最終的に社会の発展が止まり、閉塞感が漂い、崩壊した
令和のこの時代、日本でほとんど論語が読まれていないのは、朱子学と論語原理主義の差がどうとかではなくて、儒教思想の根本が誤っているからだ
渋沢は祖先や兄弟に従う「孝悌忠信」が重要だと言うが、これらを至上命題とすると、他人の目を過度に気にし、権威にいたずらに従う、為政者に都合のいい社会となる
明治時代以降も、教育勅語など、儒教的な価値観は細々と続いていたが、太平洋戦争で日本はアメリカに負け、儒教は完全に捨て去られた
代わりに入ってきたのが、長年にわたり世界を支配し、時の試練にも、数々の敵の挑戦にも耐え、現代社会や科学を発展させてきた、イギリスとアメリカの哲学である
自由と民主主義、そして、最大多数の最大幸福を合理的に求め、実証できることだけを信じる科学的な考え方だ
われわれは小学校からそういった教育をうけているし、グローバルスタンダードはそのような考え方だろう
渋沢は功利の思想だけでは、道徳が崩壊するというが、功利論を正しく理解していない
功利とは、自分の利だけを求めるのではなくて、全体の利を求めることだ
それを知ってなお自分の利だけを求める人がいるのが問題であれば、法律で縛るか、あるいは渋沢の嫌いな宗教を推進するべきだ
もちろん、道を歩いていたら武士に突然切り殺されるような、今よりははるかに教育程度の低かった当時の社会では、論語と算盤の主張する考えは役に立ったであろう
渋沢も本文中で、道徳は時代により変化するし、社会は進化すると述べている
進化レベルにより役に立つ思想も変化するのだから、つまり論語と算盤を現代社会で活用するのは時代遅れなうえ間違っている